アメージング・グレイス(美鶴編)

 

綿雪が次々降り続いて、辺りまで白く霞みはじめて来た時。
美鶴はふと気配を感じて立ち尽くしていた道路の先に視線をやる。

ぼんやりと。

道路のずいぶんと先だけれど見慣れたようなポワポワの黒い髪が、降り続く雪の合間にうっすらと───湿った光を放って人影を作っているのが見えた気がした。

「・・・・?」

まさか、亘・・・?

美鶴はたちまち高鳴ってきた胸の動悸を押さえながら、人影の方へ足を踏み出そうとした。けれど。

ピルルル、ルルルル、ピルル、ルルー。

携帯から美鶴の気に入りの曲の着信音が聴こえて来て、美鶴は立ち止まる。確認するとアヤからだった。美鶴は仕方なく急いで携帯を開いて、耳にあてた。

「もしもし?・・・アヤ?どうした?え?・・・ああ、いや、わかってる。うん、もうすぐ・・・帰るから」

溜め息と共に美鶴は携帯を切った。そしてすぐに亘らしき影に近づこうと、顔を上げた途端、誰かに呼び止められた。

「芦川くん?何してるの?」

ふと気づくと綺麗な緋色の傘が自分にかざされている事に気づく。美鶴は声の主の方へ顔を向けた。

「・・・・大松・・・え、香織・・さん?」
「雪まみれじゃない?早くこっちにいらっしゃいよ!」

大松香織と呼ばれた少女は美鶴の腕を引っ張っると半ば強引に、自分の傘の中に引き入れた。

「久しぶりにこっちに戻ってみたら・・・相変わらずね。こんなんで風邪引いちゃったら三谷くんがまた死ぬほど心配するじゃないの!」

香織はそう言って持っていたバッグからハンカチを取り出すと美鶴の髪をゴシゴシと拭いた。
美鶴は慌ててその手を押し止めながら、驚いたように問い掛けた。

「ちょ・・・待ってくれ。なんで・・・?」
「ここにいるかって?年末の親戚の用事で学校が終わると共にこっちにお使いに出されたのよ。それでその用事が済んで駅に向かおうとふと、道路の向こうを見たら芦川くんが雪まみれになってボーッと立ってるんだもの!ビックリしたわ」

香織は美鶴と亘が小学校の6年になる前に隣の町へ引っ越していた。
亘とは浅からぬ関係にある香織の事を───引っ越してしまう前に美鶴も亘から一度だけ会わせて貰って・・・知っていたのだ。
ピッタリと美鶴にくっつき、尚も髪をゴシゴシやろうとする香織に美鶴は顔をしかめ、やんわりと押し返す。

「いい、大丈夫だから!・・・ありがとう。俺、もう急ぐから・・」
「三谷くんと会うの?」

少しからかうような香織の口調に、美鶴は思わず立ち止まり振り返る。そして自分をジッと見つめてくる香織を見返しながら、かすれたような小さな声で聞いた。

「・・・会いに来たのか?」

香織はほんの少しだけ目を細めると、ゆるりと首を横に振る。傘に積もっていた雪がパサリと落ちた。

「親戚の用事で来たって言ったでしょ?それに本とに帰らなきゃいけない時間だし。もし、そうしたくたって時間はもう無いわ。───もちろん、本当はとっても会いたいけどね」

言葉の最後のほうにかすかに挑戦的な響きがあった事を美鶴は聞き逃さなかった。
美鶴は香織の方に改めてきちんと向きなおすと、その瞳を真っ直ぐ見詰め返しながら強い口調でキッパリと言った。

「俺、亘が好きなんだ。───友達としてじゃなく」
「知ってるわ」

間髪いれずに言い返してきた香織に美鶴はほんの少し眉をひそめながらも、それでもひるまずに更に続ける。

「渡さないよ。誰にも。君にも。亘は───俺のだ」
「───亘くんは?」

香織の亘の呼び方が唐突に名前の方に代わったのに、美鶴は弱冠戸惑いながらも視線ははずさずに言った。

「どういう意味だ?」
「亘くんは───亘くんも、そう・・・思ってるの?」

降り続く雪の中、香織の黒曜石のような瞳が煌きながらずっと美鶴を見詰め続けている。美鶴はその瞳に一瞬吸い込まれそうになるのを感じながら、思わず顔を俯ける。

「お互いがそう思ってるの?それを確かめてるの?」
「・・・それ、は」
「私も亘くんが好きよ」

美鶴は香織のその全く気負いの無い声に顔を上げる。香織がいっそ清らか過ぎるほどの微笑を浮かべながら、歌うような声で呟くように言った。

「好きよ。大好き。多分、あなたにも負けないくらい」

緋色の傘をクルリと回して、香織は白い雪を自分の周りにふわりと舞い落としながら、自分もクルリと美鶴に背中を向け、まるで雪の精のような足取りでゆっくり歩いて去って行った。

後に残された美鶴は、舞い散る雪の中再び濡らされた髪が薄い光を放ちながら、しばらく只その場に立ち尽くしていた。

 

(亘くんもそう思ってるの?)

さっきの香織の言葉が、美鶴の頭の中で何度も繰り返される。

「亘・・・」

・・・・・・・いつのまにか傍にいるのが当たり前だと思っていた。ずっと一緒にいるのが当然だと信じていた。

でも。
でも。

もしかしたらそう思ってるのは自分だけかもしれない。それどころかそれは、只の自分の願望でしかないのかもしれない。

いつも当たり前のように傍にいて笑ってくれていたから。
いつもいつのまにかそのぬくもりを寄り添わせてくれていたから。

───亘も自分と同じ想いなのだと・・・・そう、勝手に思い込んでいた。

「そうじゃ、ない・・のか?」

だから、あんなに怒ったのか?ケンカしたあの日、逃げ出すように去ってしまったのは・・・あんなことしたから?只意地を張っているだけじゃなく、クリスマスになっても尚、声もかけて来ないのは・・・・俺の事をなんとも思ってないからなのか?

美鶴は上着のポケットに手を突っ込み、その中にある小さな包みを軽く握り締める。
そして唇を噛むと、急ぎ足でさっき亘らしき影を見た道へと進む。もうその影はそこにはいなかったけれど、雪に残る足跡を頼りに必死に辺りをきょろきょろ探してみた。

「あ」

住宅街から外れた中道の先に続く足跡を追っていってみると、少し離れた道の向こうに雪にまぎれてはっきりとは見えなかったが、なぜか道路にしゃがみ込んでいる亘らしき黒髪の後姿が見えた。
美鶴はホッと肩を下ろし、駆け寄ろうと足を1歩進めながらも、もう一度立ち止まって確認するようにその影をよく見た。
イヤイヤをするように頭を振っていたその影がこちらを振り向いた時、それがまぎれもなく亘だという事に美鶴は気づいた。けれど、同時にその影に寄り添うように、抱きしめるようにもう一人の影がいる事にも気づいた。

「え・・・」

宮原だ。

小さな子をあやすように亘の髪を何度も撫でながら、そっと包み込むように宮原が亘を抱きしめていた。瞬間、美鶴はまるで氷神に息を吹きつけられたかのように、凍り付いて動けなくなった。

(宮原・・・?なんで?)

いつもの美鶴ならこんな場面を見たら、即効で宮原を突き飛ばし亘を奪い返している。けれど今の美鶴はそんな行動を起こす事さえ、失念しているかのように只、雪の降る中寄り添いあう影を信じられない想いで凝視する事しか出来なかった。

───亘くんもそう思ってるの?それを確かめてるの?

先ほどの香織の言葉がまたゆっくりリフレインする。

美鶴は静かにその瞳を閉じたかと思うと───その影から遠く離れるようにその場からあっという間に走り去ってしまった。

 

「あら?」

香織は駅の外の屋根の下で雪をしのぎながら、唐突に自分の目の前に現れた人物に声を上げる。
そして驚きと不思議さを半々にしたような声音で話し掛けた。

「さっきより更にびしょ濡れになっちゃって。・・・どうしたの?亘くんに会いに行ったんじゃないの?」
「・・・そっちこそ、まだいたのか?」
「この雪で電車が遅れてるのよ。・・・わざわざ濡れる事無いでしょ?こっちに来たら?」

美鶴は香織に言われるまま、フラリと屋根の下に移動する。そして香織と肩を並べて震えながら白い息を吐き出した。
香織は今度は無言のまま、カバンからハンカチを取り出して美鶴に差し出す。美鶴も無言のまま、首を横に振る。香織は溜め息をつくと、そっとハンカチをカバンに仕舞った。

「・・・・いった通りかもしれない」
「え?」

美鶴が独り言のように話し始める。香織は顔を上げるとじっと美鶴を見た。

「俺は俺が亘を想ってる様に、亘もそう思ってくれてるって勝手に信じてた・・・でも、亘は違ったのかもしれないよな」
「・・・・亘くんと何か話したの?」
「・・・何も。たださっき君はいっただろ?・・・・亘は、亘も俺と同じに思ってるのかって・・・違うんじゃないかって、言っただろ?・・・その通りだったのかもしれない」
「なにそれ?私、違うとは言ってないわよ?」

香織は何度も目を瞬くと、心外だと言うように少し強い口調で言った。

「ただ、確かめたのかって言っただけよ?」
「同じ事だろ?」
「全然、違うわよ!」

香織は手を伸ばして美鶴の耳を引っ張ると、すぐ傍に顔を近づけて本格的に怒った声でまくしたてた。

「美鶴くん、本当に子供ね?皆見かけと雰囲気にだまされるんでしょうけど、あなたをしっかりして大人びてるなんて言う人がいたら会ってみたいわ!
もう!本当に自分の大切な相手にはどこまでも臆病なのね?いい?私が言いたいのはね。
ちゃんと言葉で伝えてるの?ちゃんと想いを形にしてるの?あなたはそう思っていても亘くんにそれが伝わってなきゃ、意味が無いのよ!そういうこと。わかる?」

肩を弾ませて一気に言葉を吐き出した香織に、今度は美鶴が目を瞠った。香織は悲しそうな悔しそうな瞳の色をすると、美鶴から手を離し顔を俯ける。
そして大きくため息をつくと、呆れたように肩を落とし美鶴に背を向けた。そしてしばらく何かを探すように少し彼方を見詰めていたが、目的の何かを見つけたのか大きく目を瞠る。そして再び軽く息ををつくと、悔しそうに美鶴を振り返り呟いた。

「ほらね。もう、なんだってせっかくのクリスマスに損な役回り演じなきゃならないのかしら?
・・・・全く、やんなっちゃうな。
美鶴くん、好きな相手を不安にさせるようじゃ、人を好きになる資格なんか無いのよ?いつまでもそんなんだったら、私、そのうち本当に亘くん奪いに来ちゃうから!覚えておいてね」

そう言って香織は再び美鶴の耳を掴むと、グイ!と顔を駅の向こうの道路の方に向けた。

真っ白な雪がさらさらと舞う中、信号が何度も赤と青を繰り返し点滅して、たくさんの人が行き交う交差点の向こうに自分のコートの裾を握り締めて、立ち尽くしている小柄な一人の人物が見えた。

美鶴は大きく目を見開く。

唇を噛んで真っ赤な顔をして、自分と香織を食い入るように見詰めている亘の姿が───そこにあった。


エンディング「こいしこのよる」へ。