顔を上げ、美鶴らしき人影のいる方へ一歩足を踏み出そうとした時、聞きなれたクラシックの曲がかすかに亘の耳に聴こえてきた。それは美鶴の気に入ってる曲で、美鶴の携帯の着信音に使われているものだった。
───あ、やっぱり美鶴だ。
亘はなんだかホッとして一息つくと、安心した様に一度立ち止まる。そして舞い散る雪の中に見える影に、今度は確信を持った足取りで近づこうとして再び足を止め、その場に固まってしまった。
「え・・・・」
携帯を取り出し何やら話していたはずの美鶴に、いつのまにかもう一つの影が近づいて来ていた。シルエットの雰囲気から見て、それが傘を差している髪の長い自分たちとそう年の変わらない少女だという事に亘は気づく。
その影はそうっと美鶴に近づくと、差していた大き目の綺麗な緋色の傘の中に美鶴を招き入れた。
そして程なく───その二つの影は寄り添うように大きな傘の中で一つになって、雪の中ずっと動かなくなった。
亘はまるで絵本を見るようにそのシーンを目を凝らしてみていたが、スッと踏み出していた足を後退させると、次の瞬間弾かれたようにもと来た道に向かって走り出していた。
トクントクントクン・・・・ドクンドクンドクン・・・!
誰だろう誰だろう誰だろう?
美鶴と一緒に傘の中にいたあの少女は誰だろう。
ボク・・・なんで、何で何で逃げてるんだろう・・・・?
勢いよく走り出したせいで雪が次々と亘の顔にあたり、体温で溶けて雫を作る。
次々次々、瞳のまわりに溢れる雫を亘は手の甲でぬぐいながら、ただ走り続けていた。
ドスン!
「うわっ?!」
前も見ずに走っていたら急に思い切り誰かとぶつかった。反動で亘は足を滑らせ、雪の上に尻餅を着く。ぶつかった相手が持っていたらしいスーパーの買い物袋が眼の前に放り出され、中の荷物がばらばらとあたりに散らばった。
亘は慌ててその荷物を拾おうと体を起こしたら、聞きなれた声が頭上から聞こえて来た。
「三谷?!」
「え・・・あ、宮原?」
顔を上げるとそこには驚いて目を大きく見開いた宮原がいた。亘をまじまじと見ながら不思議そうに何度も目をパチパチさせている。けれど亘の赤くなった瞳に気づくと心配そうに亘の顔を覗き込みながら問い掛けてきた。
「どうしたの?・・・まだ、芦川と仲直りしてないのかい?」
「・・・・!」
ばつが悪そうに散らばった荷物を拾い始めていた亘は、不意に他者から今、一番気にしている相手の名前を出されて一瞬動きを止める。
宮原には只でさえ、皆でやろう!と、言っていたクリスマスを、自分たちのケンカのせいでうやむやにしてしまっていて、気まずい思いを抱いていたから、亘はことさら平気を装って平静な態度をとろうとしていた。
なのにその宮原からよりにも寄って美鶴の名を聞かされ、亘は完全に自分の中の堰が壊れたのを感じる。
気がつけばこらえる事が出来ずに、溢れはじめた大粒の涙を頬にポロポロ零していた。
「え・・・わっ?!み、三谷?」
「・・・っ、バ、カ・・・バカバカバカァ・・・!」
両の拳を握りしめたと思ったら、亘は自分の肩に手を置き心配そうに寄り添ってくれていた宮原の胸をポカポカやり始めた。
宮原はいきなりの亘の小さい子供のような行動に戸惑いながらも、必死でその手を押さえようとした。
「イテッ!三谷・・・ちょっ!落ち着け!オイッ!」
「何で何で、今、美鶴の名前なんか出すんだよっ!・・・バカッバカッバカ!」
「イテッ・・わ、わかった。悪かった。いいから落ち着け、三谷!落ち着けってば・・・!」
グイッ!
宮原は暴れる亘の手を封じる為に、亘の頭を抱きしめるようにして強引に体を押さえつける。
行き場を失った亘の両手はしばらく宙でジタバタしていたが、そのうち力が抜けたようにパタリと下ろされた。
宮原がホッと息をついて、抱きしめていた亘の頭を解放しようと顔をあげたら、今度は自分の背中にしがみついてくる亘の両手に気づいて慌てた声を上げた。
「み、三谷?」
「・・・っふ・・・」
まるっきり小さな子供が母親にすがり付いてくるように、自分に抱きついてくる亘に初め戸惑いを隠せなかった宮原は、けれど亘の肩が小刻みに震えているのに気づいて目を細める。
「三谷・・・・」
「・・・みつ、る・・・美鶴、美鶴・・みつる」
何度も何度もその名を呼んでは肩を震わせる亘に、宮原はどうすればいいのかわからなくて、そっとその肩を優しく抱きしめ返す事しか出来なかった。
───傍にいたい傍にいたい傍にいたい。どうして今傍にいないの?どうしてボクと違う誰かと一緒にいるの?なんでなんでなんで・・・・?
───みつるみつるみつる・・・みつる。
天からの雪はまだ止む気配は無く、まるでこの世界を全て銀白色に染めようかとしているかのように静かに静かに───降り続く。
「ゴメン・・・」
「落ち着いたかい?」
亘は照れくさそうにコクン、と頷いた。
ちょっと歩いたところにある公園にやって来た二人は、ベンチに腰掛け話をしていた。宮原は苦笑すると、持っていた買い物袋の中をガサゴソやりながら務めて明るく亘に話し掛ける。
「まあ、芦川だってきっと今頃はどえらく後悔してると思うよ?何がケンカの原因かは知らないけどさ。今までだって三谷に3日会わなかっただけでも、禁断症状起こしてたヤツなんだから、これ以上はもう耐えられるはずないんだから。まあ、納得行かないかもしれないけど、意地張らずに三谷から謝っちゃえばすぐ仲直りできるさ」
「・・・・うん」
「もし一人が不安なら俺、一緒に芦川のとこに行ってもいいし。・・・・うーんと、あれ?無いな?」
「・・・どうしたの?」
「いや、俺さっき父さんに頼まれてなじみの酒屋さんにビール買いに行ってきたんだよ。その時、酒屋のおじさんがおまけって、暖かい缶コーヒーくれたから今、三谷と飲もうと思ったんだけど・・・無いなぁ。やっぱ、さっき拾い損ねたか」
「あ・・・ごめん!」
「いや、別にいいよ。頼まれたビールはちゃんとあるしね」
そう言って笑いながら、宮原は缶ビールを出してポンポンと手で軽く振ってみせる。
亘はしばらく宮原の手の中にあるその缶ビールをジーッと見ていたが、おもむろにその缶ビールに手を伸ばすとポツリと独り言のように呟いた。
「よく、お酒とか飲むと気が大きくなって普段出来ない事も出来るって言うよね・・・?」
「あはは。よく聞くよね。でも実際はどうなんだかね?何せ、俺たちは未成年で試した事ないしって・・・・わあっ?!三谷っ?!」
プシュッ!ゴックン!
宮原が止める間もなく、亘は素早く宮原の手からビールを奪うと蓋を開け、一気にビールを喉に流し込んでいた。
慌てた宮原が亘の手からビールを取り上げると、中身はすでに半分近くに減っていた。宮原が青くなって亘の肩を揺さぶる。
「み、み、三谷・・・!ちょ、ちょ・・・だ、だだ大丈夫かーーー?」
ものすごい勢いで真っ赤になっていく亘の顔とは反比例して、宮原は額を真っ青に染めながら問い掛けた。
ヒクッ!
「あれ・・・?宮原・・・みやはら、が二人に見える~・・・」
わああああ!
間違いなく酔っ払い仕様になり始めた亘に宮原は冷や汗を流す。酔っ払ったまま、ベンチから立ち上がり今にもどこかに走り出しそうな亘の腕を掴むと、買い物の荷物そっちのけで押しとめた。
「ま、待った!待った、三谷!どこ行く気?」
「なんだよー、離してよー・・・美鶴ンとこ行くに決まってんじゃん~!ずーっと、ボクを無視してきてさ~・・・文句言ってやるう・・・!」
手足をブンブン振り回し、駄々っ子のように口を尖らせそう言う亘に、宮原は本格的に焦り始めた。
亘をこんな状態にしたまま美鶴に会わせて、今までよりも更に状況を悪化させる事になったりしたら、不可抗力とはいえ原因を作った宮原はこの後美鶴にどれほど恨まれる事になるであろうか。
なんとか亘を説得して、とりあえずこの場は家に帰さなくては!
「三谷!三谷!・・・とりあえず一回自分のうちへ帰ろう?そして落ち着いてから芦川のところへいったって遅くないよ。大丈夫!・・・・今日はもう大分日も暮れて遅くなってきたし、明日にしたら?」
「・・・・あ、した?」
「そうそう、どうせ明日から冬休みに入るんだしさ。いくらでも時間はあるんだから。ね?そのほうがいいよ?」
必死の宮原の説得を亘は大きな目をウルウルさせながら聞いていたが、不意に首をカクンと折って下を向くと、何も言わずに黙り込んでしまった。
・・・・納得してくれたんだろうか?
俯いてしまった亘の顔を宮原が恐る恐る覗き込もうと近づくと、亘が計ったようにいきなりバッと顔を上げた。
「わっ!?」
「・・・・じゃん」
「え、え?」
「それじゃ、・・・それじゃあ、クリスマス・・・終わっちゃうじゃん・・・!」
亘は頬と唇を真っ赤に染めて上気した顔をしながら、上目遣いで泣きながら睨むように叫んだ。酔ったせいとはいえ、そのあまりにも艶っぽい表情に宮原は不覚にも一瞬、見とれて亘を掴んでいた手の力を緩めてしまった。
亘はすかさず宮原の手を振り解くと走り出す。
「美鶴が・・・美鶴がボクじゃない誰かと、クリスマス過ごすなんて絶対・・・やだっ!」
「三谷っ!」
宮原の呼びかけに振り向く事さえせず、亘は雪の中、あっという間に駆けて行ってしまった。
何の当ても無かったけれど、亘はふらつく足取りでがむしゃらに走っていた。息があがって立ち止まり、ふと前を見ると駅のすぐ傍の交差点に立っていた。
そして。
その駅の屋根の下に。
さっき見た緋色の傘を持つ少女が立っているのが見えた。少女の顔は俯いていて誰だか、今の酔っている亘には判別が出来なかったけれど、その横に立っている薄い茶色の髪の持ち主は誰か、すぐにわかった。
亘はしばらくどうしようか、何度も逡巡したけれど、意を決したように顔を上げるとフラフラした足取りのまま、信号が青になるのを待った。
エンディング「こいしこのよる」へ。